啓示録1章10〜11節 主の日、主日に

啓示録(黙示録)

啓示録1章10〜11節

 
私は、主の日に霊の中にいた。そして、私は私のうしろにラッパの音のような大きな一つの声が「わたしがアルファであり、オメガである。」と言うのを聞いた。さらに「あなたの見ることを一つの巻き物に書き留めなさい。そして、アジアにある七つのエクレーシア(群れ)に送りなさい。すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに。」

「主の日に」

旧約聖書においては、7年の艱難期をさして「主の日」と言われています。しかし、ヨハネはここで「主の日」と使ったのは、初代教会において定着していた「週の初めの日」「週の第1日目」を指していました。

一方、この時代背景としては、ローマ帝国は、太陽神(ミスラ)を崇拝していました。その太陽神の礼拝日を「太陽の日」「日曜日」としていたのです。太陽神崇拝は、バベルの塔の権力者ニムロデから始まっています。バベルの塔を建設したニムロデ自身が、太陽の神バアルとなり、妻セミラミスは月の女神イシュタル ( Ishtar )に、息子であるタンムズはニムロデの死後父の生まれ変わりである太陽の息子として礼拝されるようになっていました。同じ太陽神崇拝は、ペルシャでは「フワル・フシャエータ」と「ミスラ」という太陽神となり、エジプトは、太陽神「ラー」を崇拝していた。そして太陽神崇拝はローマにも受け継がれていたのです。

初代の聖徒たちは、太陽神の「日曜日」を使わず、同じ曜日を「主の日」と呼んで区別していました。彼らは「主の日」と三つの特別な意味を込めて使っていました。
第一にイエス・キリストがハデスからよみがえられた日
第二に弟子たちに二回にわたり復活されお姿を現された日
第三に五旬節の日に聖霊がくだり、エクレーシア(呼び出された者たちの群れ)が誕生した日でした。

週の初めの第一日を「主の日」あるいは「主日(しゅじつ)」と呼ぶだけではなく、
主にささげられた日、主のために聖別された日」としていました。初代の聖徒たちは、毎日ユダヤ教の会堂や家々に集まり、教えと交わりとパン裂きと祈りと喜びを持って楽しんでいました。その中でも「主日」は特別に考えていたのです。毎日家々に集まっていましたが、次第に、仕事をしないわけにいかず、やがて、一週間の中でも「主日」に集まる事が定着していったようです。

しかし、忘れないでください。主イエスを中心として集まる日は、いつでもいいのです。ある国では、金曜日に仕事が休める人が多いので、金曜日にエクレーシアを持っていました。土曜の夕方から集まりを持っているところもあります。実は土曜の夕方からユダヤ人的には、主日になりますね。いつでも主を中心としたエクレーシアを持っていきましょう。

さて、この日のヨハネは特殊な体験をしていました。
パトモス島で、島流しの刑に服していました。石切場で強制労働をさせられていたのでしょうか?一人孤独で放り出されていたのでしょうか?しかし、この日は違っていました。
私は、主の日に霊の中にいた。
どのような状況なでしょうか?私にはわかりませんが、完全に肉体を持ちながら、霊の中に、すなわち肉体よりも霊が支配する状況になっていたのでしょう。流刑の身であろうが、どこにいようが、私たちは神の啓示を聞き受け取ることが可能なのです。あなたの置かれた状況で、それがいかに厳しいものであろうとも、神はあなたに語りかけます。

そして、私(ヨハネ)は私のうしろにラッパの音のような大きな一人の声が「わたしがアルファであり、オメガである。」と言うのを聞いた。
アルファ」=初め=最初=創始者です。
オメガ」=終わり=最後=完成者です。
このお方が、信仰の創始者であり、完成者です。
このお方が、救いの創始者であり、完成者です。

わたしが〜であるエゴー ἐγώ 日本語でもエゴとか使いますが、ギリシャ語では、一人称の時には、主語が省略されます。もちろん、動詞や形容詞など全てが人称によって変化し特定できますので、エゴーをあえて使う必要がないのです。しかし、使う時には、かなり強調されます。 「わたしが」となるわけです。
エイミー εἰμί 「〜である」とは、イエス・キリストがご自身の神性を強調して自己宣言されたのです。
 
「わたしが命のパンである。」ヨハネ6:35
「わたしが世の光である。」ヨハネ8:12
「わたしがいのちである。」
「わたしが羊の門である。」ヨハネ10:7
「わたしが良い羊飼い、牧者である。」ヨハネ10:11
「わたしがよみがえりであり、いのちである。」ヨハネ11:25
「わたしが道であり、真理であり、命である。」
ヨハネ14:6
「わたしがぶどうの木である。」 ヨハネ15:1
そのようなものに後からなったのでも、ならされたのでもなく、そのような存在そのものなのです。ラッパのような大きな響く声で、宣言されました。それは、ヨハネの耳にも心にも響き渡ったのです。
わたしがアルファであり、オメガである。」これは、かつてモーセが召される時に、燃える柴の中から語られる神の自己宣言と同じようです。ご自身が永遠にどのようなものであるかを宣言されました。つまりこのように宣言される方は、神であるということです。
すなわち、この声は、イエス・キリストであり、イエス・キリストは神であるとの自己宣言を聞いたのでした。
 
わたしがあってあるものである。エヒイェ アシェル エヒイェ אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה
出エジプト3:14
過去現在未来を超越し、常に存在される方。
万物の原因であり、同時に究極の目的である方。
この宣言をしっかり受け止めなければ、40年間イスラエルの民を率いてエジプト脱出とカナン入植を成し遂げるリーダーとはなり得なかったでしょう。ヨハネにとっても同じでした。神の自己宣言をしっかりと受け止めなければ、これから啓示される全ての事柄を書き記し伝える使命を全うできなかったことでしょう。

あなたの見ることを一つの巻き物に書き留めなさい。
ヨハネにとって信じられないような、未来の艱難期の数々の災害を目の当たりにした時に、あまりにも現実離れした出来事を、そのまま伝えた時に、どう思われるのだろうかとかためらいも出て来たことでしょう。過酷な流刑のためについに頭がおかしくなったとか、血迷ったかなどと、疑われるかもしれないという恐れもあったでしょう。しかし、とにかく見たままを書き記し、真実を小アジアにある七つのエクレーシア(群れ)に書き送る使命を全うするために、誰が語っているのかをしっかり受け止めることが、何よりも大切でした。

そして、アジアにある七つのエクレーシア(群れ)に送りなさい。すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに。
ヨハネが流刑となっていたパトモス島から地中海を隔てた、小アジア(現在のトルコ)に点在する七つの特徴のあるエクレーシアが選ばれました。他にも教会はありましたが、神は意図的にこの七つの群れを選ばれたのです。おそらく現在の私たちのも伝えたいメッセージを重ね合わせて、選ばれた七つのエクレーシアでした。パトモス島から一番近いエペソから始まり、時計回りにラオデキヤの教会に向けて、書き送るように命じられました。
しかし、その前にヨハネがもっと知らなければならないことがありました。

 
今日もウェブチャへようこそ!
 
伝統というか習慣で、何も考えずに使っていたものも、歴史をとおして改めて考えさせられることがありますね。1週間の曜日などもあまり考えたこともありませんでした。改めて「主日」を意識して、使ってみたくなりました。また、私たちの日常の行動も、イエス様がどのようなお方であるかをしっかりと知り受け止めていることで変化しそうです。イエス様の神としての自己宣言を通して、イエス様のことがわかると、私たちの問題はほとんど解決しそうですね。
 
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。ローマ11:36
今日も良い1日をお過ごしください!
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コメント

  1. Masaluk より:
    ウェブチャを熱心に読んでいただいて、聖書の学びにお役立てくださり、本当にありがとうございます。コメントをいただきとっても励まされています。「主の日」のもう一つの意味で、一般的に旧約聖書から使われて来た「世の終わりの一定期間の日」については、質問コーナーで取り上げてみたいと思います。1日に限定された日ではありませんので。
    イエス様の名のもとに集まるエクレーシアも、色々な曜日で、色々な場所や時間帯で持たれる事になりますように期待しています。日曜日に休めない仕事の方もたくさんいらっしゃいますから、二人三人というイエス様を中心とした集まりの始まりと展開が世界中でありますように、祝福を祈ります。
  2. 応為 より:
    blogを教えて頂いた日から、毎日聖書と首っぴきで読ませて頂いています。FBが無いので”いいね”が出来ずにすみません。
    ”主の日”、とは1日に限定された呼称かと思っていました(イエス様が再臨され、裁きをされる日)。
    また、礼拝の曜日も薄々”主を信じる人が集まる事が出来るのなら、何曜日でも良いのでは…”と思っていたので、肯定的な記事に嬉しかったです。
    明日も楽しみにしています。
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